概要
本単元は、線形代数を係数体と基底を固定せずに組み立て直し、有限次元の自己準同型と双線形形式に対する分類定理を、係数体と計量に関する仮定を明示しながら証明することを目的とする。
出発点は、単位元をもつ可換体である。線形代数 Iは実数を係数とし、行列の計算を通じて基底、次元、線形写像、対角化を扱った。本単元は係数体を一般の可換体とし、線形空間と線形写像そのものを一次的な対象として扱う。基底は対象を定めるものではなく、対象を座標へ写して計算するために選ぶものである。同じ定理でも、係数体が代数閉体であるかどうか、標数が 2 であるかどうか、内積が正定値であるかどうかによって結論が変わる。本単元は、その分岐を各主張の仮定として書く。
前半では、像、核、余核、商空間、完全列、直和、旗を定義し、続いて多重線形写像からテンソル積、対称冪、外積代数、行列式、係数拡大へ進む。ここで構成する商、完全列、フィルトレーション、テンソル構成は、後続の代数学が一般の環の上の加群に対して定義する構成の、係数環が体である場合にあたる。体の上では補空間が必ず存在する。次元が有限であれば、各線形写像を有限行列で表し、像・核・商空間の基底と次元、およびテンソル構成の座標を有限回の計算で求めることができる。本単元では、これらの構成を、後続の単元が扱う一般論のうち係数環が体で有限次元である場合として具体的に与える。
後半では、単一の自己準同型を分類する。まず任意の可換体の上で特性多項式、Cayley–Hamilton の定理、最小多項式、一次分解、有理標準形までを証明し、その後で係数体を分解体または代数閉体へ広げて、一般固有空間分解、三角化、冪零作用素の構造、Jordan 標準形へ進む。続いて非退化形式と、実数体または複素数体の上の正定値内積空間を扱い、有限次元 Hodge 分解、Schur のユニタリ三角化、有限次元スペクトル定理、極分解を証明する。有限次元 Hodge 分解は、複体のコホモロジーの各類に調和な代表元をただ一つ対応させる定理であり、後続の幾何学と調和解析が無限次元の空間に対して証明する同種の定理を、線形代数の範囲で完全に証明することができる形にしたものである。最後に、任意標数の体の上の二次形式と、実数体の上の二次形式の分類を扱う。
この単元のねらい
本単元は、読者が次に掲げる事柄を実行することができる状態を目標とする。
- 一般の線形空間と、標準的な順序付き基底を備えた座標空間を区別し、順序付き基底を選ぶ操作が両者の間の同型を定めることを説明することができる。
- Zorn の補題によって基底の存在を証明し、次元が基底の選び方によらないことを、有限次元の場合と一般の場合に分けて示すことができる。
- 商空間、余核、完全列、分裂、旗を定義に従って扱い、写像が商空間の上へ降下する条件を確かめることができる。
- 標準的な同型と、補空間や分裂や基底の選択に依存する同型とを区別することができる。
- テンソル積、対称冪、外冪を普遍性によって特徴づけ、普遍性から一意性を導くことができる。
- 標数が 2 である場合を含む一般の可換体の上で、外積代数の構成が交代性を正しく表すことを確かめることができる。
- 行列式を最高次外冪への作用として定義し、座標行列による定義と一致することを証明することができる。
- 係数拡大が次元、完全列、テンソル構成、および多項式的な不変量とどのように両立するかを示すことができる。
- 任意の可換体の上で Cayley–Hamilton の定理と有理標準形を証明し、証明のどの段階で係数体の性質を用いたのかを特定することができる。
- 特性多項式が一次因子へ分解するという仮定の下で、一般固有空間分解、三角化、Jordan 標準形を証明し、標準形の一意性がどの範囲で成り立つかを述べることができる。
- 非退化性と正定値性を区別し、直交補空間による分解が成り立つための条件を確かめることができる。
- 有限次元 Hodge 分解を証明し、各コホモロジー類の調和な代表元の一意性を示すことができる。
- 正規作用素、自己随伴作用素、正作用素について、係数体が実数体である場合と複素数体である場合の主張の違いを述べ、スペクトル定理と極分解を証明することができる。
- 二次形式について、標数が 2 でない場合の対称双線形形式との対応と、標数が 2 の場合には二次形式と対称双線形形式を偏極によって相互に復元することができないことを、例とともに説明することができる。
- 実二次形式を符号付きの平方和へ対角化し、Sylvester の慣性法則によって符号数が不変量であることを証明することができる。
前提知識
本単元は、線形代数 Iの必修の内容を前提とする。同単元は、行列の演算、行基本変形、行列式、一次独立性、基底と次元、線形写像と表現行列、階数と次元定理、固有値と対角化、および実ベクトル空間の内積と正規直交基底を扱う。本単元はこれらを一般の可換体の上で述べ直すが、述べ直しの意味を読み取るには、具体的な行列に対して同じ計算を実行した経験が要る。とくに、実・複素内積空間を扱う記事は、同単元の内積とグラム・シュミットの直交化で構成した正規直交基底と直交射影を、複素数を係数とする場合へ拡張する形で進む。
また本単元は、数学の基礎で扱う選択公理と Zorn の補題を、基底の存在を証明する場面で用いる。次元が有限であるとは限らない線形空間に基底があることは、線形独立な部分集合の全体へ Zorn の補題を適用して得られる。同単元の当該記事を読んでいない読者は、その記事を先に読む。選択公理と整列可能定理と Zorn の補題が同値であることは、本単元では証明しない。
この単元を貫く4つの方針
本単元の各記事は、次の4点を共通の方針とする。
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基底を選ばない対象と、基底を選んだ後の表示を区別する。 線形空間、線形写像、テンソル構成、特性多項式、最小多項式、不変因子、および Jordan ブロックの個数は、基底を選ばずに定まる対象または不変量である。有理標準形や Jordan 標準形の行列は、これらの不変量に適合する順序付き基底を選んだ後に得られる表示である。不変量が基底の選び方によらないことは、記号を言い換えるだけでは示したことにならないので、基底変換または普遍性によって証明する。
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主張ごとに、結論を変える仮定を明示する。 係数体が何であるか、標数が 2 であるかどうか、次元が有限であるかどうか、特性多項式または最小多項式が係数体の上で分解するかどうか、形式が非退化であるかどうか、内積が正定値であるかどうかは、単元全体を通じた暗黙の約束にしない。各定理の仮定は、その定理の主張とともに述べる。
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証明を本単元の中で閉じる。 各主張の証明は、本文で与えた定義と補題、および前の記事で完全に証明した定理へ帰着させる。一般の環上の加群の構造定理、体拡大の一般論、無限次元の作用素論といった後続の内容を、証明の根拠として先取りしない。外部の文献は、定理の版を確かめ、より広い範囲へ進むための入口として挙げる。
この方針には例外が一つだけある。複素数体が代数閉体であること、すなわち代数学の基本定理は、本単元では証明せずに認めて用いる。この主張は体の代数的な公理だけからは従わず、実数の連続性を用いる議論を必要とするためである。証明は位相空間論 Iの「コンパクト距離空間」が、コンパクト集合の上で連続関数が最小値をとることから与える。本単元でこの定理を用いるのは、代数閉体上の固有値に関する系を係数体が複素数体である場合に適用する箇所であり、三角化とスペクトル定理の系列がそこに含まれる。
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例と反例によって境界を確かめる。 新しい定義には、その定義を満たす標準的な対象と、条件を一つだけ満たさない対象を置く。定理の逆が成り立たない場合には、逆の否定を満たす例を挙げ、その例がなぜ条件を満たさないのかを計算または論証によって確かめる。名称や行列を並べるだけの例は置かない。
学習の順序と各記事の内容
記事は40本であり、いずれも必修である。読者は、並んでいる順に読む。前の記事で証明した事柄を、後の記事の証明でそのまま用いるためである。全体は六つの段階に分かれる。
第1段階 可換体上の基底を選ばない線形代数
はじめに、係数体を一般の可換体とし、線形空間と線形写像を基底によらずに扱う語彙を定める。ここで作る商空間、完全列、直和、旗は、以後のすべての段階で用いられる。
- 可換体 — 単位元をもつ可換体の公理を定め、有理数体、実数体、複素数体、素数を法とする剰余体を例として、各公理を検証する。零でない元がすべて逆元をもつことが、連立一次方程式を解く手続きのどの段階で用いられるのかを示す。標数を定義し、標数が 2 である体ではが成り立つことを確かめる。この事実は、対称冪、外積代数、二次形式の記事で結論を分ける。
- 線形空間と座標 — 可換体上の線形空間と部分空間を定義する。座標空間は標準的な順序付き基底を備えた線形空間であり、単に次元が等しいことよりも多くの情報を持つ。一般の線形空間に順序付き基底を選ぶ操作が、その空間から座標空間への同型を定めることを示す。以後の記事は、この区別を保ったまま進む。
- 基底と次元 — 線形独立な部分集合の全体を包含関係によって順序付け、鎖の和集合が上界になることを確かめて Zorn の補題を適用し、極大な線形独立集合を得る。極大性から生成性を導く段階を省略せずに示し、任意の線形空間が基底をもつことを証明する。次元を基底の濃度として定義し、濃度が基底の選び方によらないことを、有限次元の場合と一般の場合に分けて証明する。
- 線形写像の像と核 — 線形写像、単射、全射、同型を定義し、像と核が部分空間であることを証明する。基底を選ばない写像と、定義域と終域に順序付き基底を選んだときに定まる表現行列を区別し、基底を取り替えたときに表現行列がどのように変わるかを示す。
- 双対空間と双対写像 — 線形汎関数の全体がなす代数的双対空間、双対基底、双対写像、部分空間の零化空間、二重双対への標準写像を定義する。有限次元では双対写像の表現行列が転置行列になること、および二重双対への標準写像が同型になることを証明する。双対基底の構成が基底の選択に依存するのに対し、二重双対への標準写像は選択に依存しない。この対比は、方針1の実例にあたる。
- 商空間と余核 — 部分空間による商線形空間を構成し、和とスカラー倍が代表元の取り方によらないことを証明する。標準射影を定め、線形写像が商空間の上へ降下するための条件と、降下した写像の一意性とを分けて示す。余核を、終域を像で割った商空間として定義し、第一同型定理について誘導写像が定まること、単射であること、全射であることを順に確かめる。
- 完全列と分裂 — 線形空間と線形写像の列が完全であることを、各段で像と核が一致することとして定義し、短完全列を定める。体の上ではすべての短完全列が分裂することを、補空間の存在から証明する。分裂を与える同型は補空間または切断の選択に依存し、一般には一意でも自然でもない。この違いは、第2段階のフィルトレーションで再び現れる。
- 直和・旗・ブロック行列 — 内部直和と外部直和、および部分空間の増大列である旗を定義する。線形写像が直和分解を保つとき、適合する順序付き基底に関する表現行列がブロック対角形になること、部分空間または旗を保つときにブロック上三角形または上三角形になることを証明する。第3段階以降の標準形は、いずれもこの対応によって行列の形として述べられる。
- 次元定理 — 像と核の次元の和が定義域の次元に等しいことを証明し、有限次元の短完全列に対して次元が加法的であることを導く。次元が有限でない場合には、同じ等式を基数の加法として述べる。有限次元における次元の差を、無限基数に対してそのまま用いることはできない。
第2段階 多重線形代数と係数拡大
続いて、変数を二つ以上もつ線形性を扱う。テンソル積、対称冪、外積代数はいずれも普遍性によって特徴づけ、標数による分岐を明示する。行列式は、この枠組みの中で基底を選ばずに定義される。
- 多重線形写像 — 双線形写像と多重線形写像を定義し、対称性と交代性を定める。基底を選んだときの成分表示と、基底を取り替えたときの変換則を扱う。多変数について同時に線形であることは、線形写像の合成では表すことができない。この事実が、次の記事でテンソル積を構成する理由である。
- テンソル積 — 任意の双線形写像が一意な線形写像を通じて因子化する普遍対象としてテンソル積を構成し、この普遍性を満たす対象が同型を除いて一意であることを証明する。基底と次元、線形写像のテンソル積、有限次元における双対空間との標準的な同型を扱う。純テンソルが一般には一意に分解されないことを、具体的な元によって確かめる。
- テンソル冪と置換作用 — 複数の線形空間のテンソル積とテンソル冪を構成し、因子の置換が定める対称群の作用を扱う。結合の順序を変えて得られる空間の間に標準的な同型があることを示し、どの同型が選択に依存しないのかを明示する。
- 対称冪 — 対称多重線形写像を表現する対称冪と対称代数を構成し、普遍性、基底、次元を証明する。群の平均による対称化作用素を用いることができるのは、対称群の位数が係数体で可逆である場合に限られる。標数によって扱いが変わることを、この段階で区別する。
- 外積代数 — 交代多重線形写像を表現する外冪と外積代数を、線形空間の任意の元に対するの全体が生成する両側イデアルでテンソル代数を割ることによって構成する。この構成は標数が 2 の場合にも交代性を正しく表す。符号を付けた置換の和による定義は、標数が 2 の場合には交代性を与えない。普遍性、基底、次元、楔積を扱う。
- 最高次外冪と行列式 — 有限次元線形空間の最高次外冪が 1 次元であることを証明し、自己準同型が最高次外冪へ誘導する写像がスカラー倍になることから、そのスカラーを行列式と定義する。この定義が基底の選択に依存しないこと、および座標空間における交代多重線形形式による定義と一致することを証明する。
- テンソル構成と完全列 — 体の上ではテンソル積が短完全列を保つことを証明する。短完全列に付随して対称冪と外冪にフィルトレーションが生じ、隣り合う二項の部分商が部分空間と商空間の対称冪・外冪のテンソル積で記述されることを示す。補空間を選んで得られる直和分解と、選択によらないフィルトレーションおよびその部分商とを区別する。同じ区別は、後続の代数学が一般の環の上でフィルトレーションを扱うときにも必要になる。
- 係数拡大 — 体拡大に沿う線形空間と線形写像の係数拡大を、テンソル積によって構成する。次元、完全列、テンソル積、対称冪、外冪との両立性を証明し、有限次元では双対空間との両立性も示す。完全列が保たれることは、後続の単元で用いる平坦性という語を使わずに、体の上の基底と分裂から証明する。係数を広げても行列式や特性多項式が変わらないことは、第4段階で固有値を扱うときに用いる。
第3段階 任意の体上の有限次元自己準同型
次に、一つの自己準同型を分類する。まず、係数体に何の仮定も置かずに証明することができる範囲を確定する。固有値の存在を前提としない議論であり、そのために多項式環の作用と巡回部分空間を道具とする。
- 作用素の多項式 — 自己準同型への多項式の代入を定義し、多項式環が線形空間へ作用することを示す。零化多項式、一つのベクトルから生成される巡回部分空間、および不変部分空間との関係を扱う。
- 不変部分空間 — 自己準同型が保つ部分空間、制限作用素、商作用素を定義し、多項式の核と像が不変であることを証明する。第1段階の直和と旗の結果を用いて、作用素の分解と表現行列のブロック形を対応させる。
- 特性多項式 — 有限次元自己準同型の特性多項式を定義し、基底の選び方に依存しないことを証明する。係数からトレースと行列式を読み取り、相似変換および係数拡大に対して不変であることを示す。
- Cayley–Hamilton の定理 — 自己準同型が自身の特性多項式を満たすことを、任意の可換体の上で証明する。行列を係数とする多項式の形式的な評価は一般には積を保たないことを明示し、上の随伴行列恒等式を係数比較することにより、係数行列の可換性を仮定せずに証明する。後の記事で証明する三角化を根拠に用いる循環も避ける。逆行列の表示と高い冪の簡約へ適用する。
- 最小多項式 — 零化多項式の全体が多項式環のイデアルをなすことから、その単項生成元として最小多項式を定義し、特性多項式を割ることを証明する。巡回部分空間への制限を扱い、最小多項式が相異なる一次因子の積へ分解することと、自己準同型が対角化可能であることが同値であることを示す。
- 一次分解 — 最小多項式を互いに素な既約因子の冪の積へ分解し、対応する核の直和へ線形空間を分解する。Bézout の等式から射影作用素を具体的に構成し、その像と核を一次分解の直和成分によって同定したうえで、線形空間がこれらの成分の直和になること、および各成分が自己準同型で保たれることを証明する。一次でない既約因子は、固有値に対応する一次因子とは別のものである。
- 有理標準形 — 巡回部分空間と同伴行列を用いて、任意の体の上の有限次元自己準同型を不変因子に対応するブロックの直和へ分解する。存在と、ブロックの順序を除く一意性を証明する。証明は、単項イデアル整域上の有限生成加群の構造定理を引用せず、本単元で構成した道具の範囲で閉じる。
第4段階 分解体上の一般固有空間と Jordan 標準形
続いて係数体を広げ、特性多項式が一次因子へ分解する場合を扱う。第3段階の一次分解が、この場合に固有値ごとの分解として現れる。
- 代数閉体と固有値 — 分解体と代数閉体を、自己準同型の標準形に必要な範囲で定義する。係数拡大の前後で特性多項式、最小多項式、固有値を比較し、実行列の非実固有値が複素共役の対で現れることを、係数が実数であることと根の関係から示す。代数閉包の存在、分離性、Galois 対応は扱わず、どこから先が別の単元の範囲であるかを明示する。
- 一般固有空間 — 特性多項式が係数体の上で一次因子へ分解する場合に、固有値ごとの一般固有空間を定義し、第3段階の一次分解をこの場合へ書き直す。核の増大列が有限段で停止すること、および自己準同型が各段を保つことを証明する。
- 三角化 — 有限次元自己準同型が三角化可能であることと、特性多項式が係数体の上で一次因子へ分解することが同値であることを証明する。不変な完全旗と上三角表示が対応することを示す。
- 冪零作用素 — 冪零作用素の核の増大列から Jordan 鎖を構成し、冪零 Jordan ブロックの直和へ分解する。各長さのブロックの個数を核の次元の差から復元し、分解がブロックの順序を除いて一意であることを証明する。
- Jordan 標準形 — 一般固有空間分解と冪零作用素の構造を組み合わせ、特性多項式が一次因子へ分解する自己準同型の Jordan 標準形を構成する。存在と、ブロックの順序を除く一意性を証明する。有理標準形と Jordan 標準形の関係を、係数体が既約因子をどこまで分解するかの違いとして述べる。
- 行列関数 — Jordan 標準形を用いて、特性多項式が一次因子へ分解する係数体の上で行列の冪を計算し、線形漸化式へ適用する。係数体が実数体または複素数体である場合には、行列の指数関数を計算し、定係数線形微分方程式系へ適用する。対数と平方根は、係数体、固有値の位置、分枝の取り方、および冪零部分に関する条件を満たす場合に限って扱う。固有値ごとに値を一つずつ選べば常に行列の対数または平方根が得られるとは限らない。
第5段階 非退化形式と実・複素内積空間
ここから、線形空間に形式を与える。一般の可換体の上の非退化形式と、実数体または複素数体の上の正定値内積とを、最初に区別する。有限次元 Hodge 分解、スペクトル定理、極分解は、いずれも正定値性を仮定する。
- 非退化形式と随伴 — 対合をもつ可換体の上の有限次元線形空間に対して、半双線形形式と非退化性を定義する。どちらの変数について線形とし、どちらについて半線形とするかの規約を記事の中で宣言する。非退化な形式が空間から双対空間への、対合に関する半線形全単射を定めることを証明し、対合が恒等写像である場合に限って線形同型になることを示す。随伴写像、等長写像、直交補空間も扱う。非退化であることは正定値であることを意味せず、部分空間とその直交補空間による分解は、形式をその部分空間へ制限したときに非退化であるなどの条件の下でだけ成り立つ。恒等対合の場合が対称双線形形式にあたる。進体の上の形式を境界例として用いる。
- 実・複素内積空間 — 係数体を実数体または複素数体に限定した有限次元線形空間で、正定値内積を定義する。複素内積がどちらの変数について線形であるかの規約を宣言し、以後の記事もその規約に従う。Cauchy–Schwarz の不等式、ノルム、正規直交基底の存在、および Riesz 表現を証明する。Riesz 表現による双対空間との同一視が、複素の場合には反線形になることを、宣言した規約と整合させて示す。任意の部分空間に対して直交補空間と直交射影を構成する。次元が有限でない内積空間では、任意の部分空間への直交射影が存在するとは限らないので、本単元はこの仮定を各主張とともに述べる。
- 有限次元 Hodge 分解 — 実または複素内積空間からなる有限複体に対して、微分の随伴と Laplace 作用素を定義する。Laplace 作用素の核が、次の微分の核と前の微分の随伴の核との共通部分に一致することを示し、各空間が前の微分の像、 Laplace 作用素の核、次の微分の随伴の像の直交直和へ分解されることを証明する。各コホモロジー類が調和な代表元をただ一つ持つことまでを扱う。この定理は、第1段階で証明した次元定理を、内積がある場合に精密化したものにあたる。後続の幾何学と解析学が無限次元の空間に対して扱う同種の分解は、値域の閉性や作用素の正則性を別に必要とするので、本単元では扱わない。
- テンソル構成の内積 — 実・複素内積空間のテンソル積とテンソル冪に内積を定め、対称冪と外冪へ制限する。正規直交基底から誘導される基底がふたたび正規直交であること、および線形写像のテンソル積の随伴が各因子の随伴のテンソル積になることを証明する。
- 随伴作用素と正規作用素 — 非退化形式の記事で既に定義した随伴を実・複素内積空間の自己準同型に用い、自己随伴作用素、直交作用素とユニタリ作用素、正規作用素、正作用素を定める。随伴との可換性、内積とノルムの保存、および固有値と固有空間に関する基本的な性質を、係数体が実数体である場合と複素数体である場合を区別して証明する。
- Schur のユニタリ三角化 — 有限次元複素内積空間の任意の自己準同型が、ある正規直交基底に関して上三角行列で表されることを証明する。証明は、複素数体の上での固有ベクトルの存在と、直交補空間への帰納法による。実 Schur 形と QR 法については、得られる結論との関係だけを述べ、証明の根拠には用いない。
- 有限次元スペクトル定理 — 複素正規作用素が正規直交基底によって対角化されることを、Schur の三角化と、正規な上三角行列が対角行列であることから証明する。実自己随伴作用素の場合を導き、可換な正規作用素の有限族が同時に対角化されることも証明する。実数体の上では、正規であっても対角化されるとは限らない。
- 極分解 — 正作用素の正の平方根を有限次元スペクトル定理から構成し、その平方根がただ一つであることを証明したうえで、有限次元の実または複素内積空間の間の線形写像を、部分等長作用素と正作用素の積へ分解する。核が零でない場合には、部分等長作用素の初期空間と終空間を明示し、一意性が成り立つ範囲を述べる。可逆な自己準同型については、部分等長作用素がユニタリ作用素または直交作用素になることを、系として区別する。
第6段階 任意標数の二次形式と実二次形式
最後に、二次形式を扱う。第5段階の対称双線形形式との関係が標数によって変わることを確かめ、その後で係数体を実数体に限定して分類を完成させる。
- 二次形式 — 任意標数の可換体の上で、二次形式、偏極形式、退化性、等方性、合同変換を定義する。標数が 2 でない場合には、2 で割ることによって二次形式と対称双線形形式が同じデータを与えることを証明する。標数が 2 の場合にはこの対応が崩れ、偏極形式が零であっても二次形式が零とは限らない。有限体の上の具体例によって、この現象を確かめる。
- 実二次形式 — 係数体を実数体に限定し、合同変換によって符号付きの平方和へ対角化する。Sylvester の慣性法則を証明し、正の項の個数と負の項の個数が対角化の仕方によらないことを示す。正定値性を、符号数および首座小行列式によって判定する。進体の上では符号数が分類の不変量にならず、平方類のような別の不変量が要る。一次元の形式について、この違いを確かめる。
学習到達点の確認方法
本単元は、計算の正確さではなく、読者が定義と普遍性から証明を構成することができるかどうかを確かめる。記事ごとに確かめる内容は、次のとおりである。
- 読者が、証明の各段階でどの仮定を用いたのかを特定することができるかを確かめる。とくに、係数体の標数、代数閉性、特性多項式または最小多項式が分解すること、次元が有限であること、形式が非退化であること、内積が正定値であること、および選択公理のうち、どれを用いたのかを区別することができるかを確かめる。
- 読者が、基底を選ばずに定まる主張と、順序付き基底を選んだ後の行列に関する主張とを対応させ、不変量が基底の選び方によらないことを、基底変換または普遍性によって示すことができるかを確かめる。
- 読者が、標準的な同型と、補空間や分裂や分枝の選択に依存する同型とを区別することができるかを確かめる。
- 読者が、標準形の一意性がどの範囲で成り立つのかを述べ、その範囲を証明の中で確かめることができるかを確かめる。
- 読者が、仮定を一つ外したときの反例を構成し、その例が主張の否定を満たすことを確かめることができるかを確かめる。標数を 2 にする、係数体を代数閉体でないものにする、内積を非退化だが正定値でない形式に取り替える、という三つの取り替えを、とくに扱う。
演習には、証明を再現する問題、方針から証明を補う問題、仮定の使用箇所を特定する問題、および反例を構成する問題を用いる。証明を伴う解答については、仮定の明示、量化の範囲、各段階の根拠、および用いた定理の適用条件が満たされていることを評価の対象とする。
前後の単元との関係
- 線形代数 I — 同単元は、実数を係数とする行列とベクトル空間を扱い、対角化可能性の判定と、可能な場合の対角表示までを範囲とする。本単元は、係数体を一般の可換体とし、対角化することができない自己準同型も有理標準形によって分類し、特性多項式が一次因子へ分解する場合には Jordan 標準形によって分類する。同単元が構成する QR 分解と特異値分解は、本単元では再構成しない。
- 数学の基礎 — 同単元は、選択公理、Zorn の補題、および濃度の比較を扱う。本単元は、次元が有限でない線形空間の基底の存在と、次元を基数として述べる場面で、これらを用いる。
- 体論入門 — 同単元は、体の拡大、分解体、代数閉包の存在、分離性、および Galois 対応を扱う。本単元は、自己準同型の標準形に必要な範囲で分解体と代数閉体を定義するにとどめる。一般の体拡大について、係数体上の多項式の根が体の自己同型によってどのように移るかを論じるには、同単元で扱う Galois 作用と Galois 対応が必要になる。
- 環論入門 — 同単元は、一般の環の上の加群、完全列、テンソル積、および単項イデアル整域上の構造定理を扱う。本単元が体の上で構成する商、余核、完全列、テンソル構成は、その特別な場合にあたる。本単元の有理標準形は、同単元の構造定理を引用せずに証明するので、同単元を先に読む必要はない。
- ホモロジー代数 — 同単元は、鎖複体、ホモロジー、および導来関手を扱う。本単元の完全列、フィルトレーション、部分商、および有限次元 Hodge 分解は、そこで扱う対象を、体の上で完全に計算することができる形にしたものである。
- 圏論 I — 同単元は、普遍性、極限、随伴を一般の圏に対して扱う。本単元がテンソル積、対称冪、外冪、商空間について用いる普遍性は、同単元の一般論の具体例にあたる。
- 有限群の表現論 — 同単元は、群の線形表現を一般に扱う。本単元は一般の群表現論を扱わないが、テンソル因子の置換が定める対称群の作用は扱う。同単元が用いる線形空間、直和分解、不変部分空間、テンソル積、および指標を定めるトレースは、本単元が供給する。
- Lie 環論 — 同単元は、Lie 環の構造と表現を扱う。本単元の Jordan 標準形、不変部分空間、双線形形式は、同単元の Killing 形式と Cartan の判定条件に用いられる。
- 関数解析入門 — 同単元は、無限次元のノルム空間と Hilbert 空間、有界作用素、およびそのスペクトル理論を扱う。本単元の正規直交基底、随伴、正規作用素、スペクトル定理は、有限次元の場合にあたる。無限次元では、値域の閉性と収束の議論が新たに要る。
- 多様体入門 — 同単元は、多様体上の微分形式と外微分、および de Rham 複体を扱う。本単元の外積代数は、各点における余接空間に対して同単元が用いる構成であり、有限次元 Hodge 分解は、de Rham 複体に計量を入れたときに現れる分解の代数的な模型にあたる。
- 凸最適化 — 同単元は、凸関数の判定と Lagrange 双対を扱う。本単元の二次形式の正定値性の判定と双対空間は、そこで用いられる。
- 数値解析 I — 同単元は、有限精度の計算における誤差と安定性を扱い、固有値を求める反復算法を構成する。本単元は、それらの算法が近似する対象である標準形と分解を、誤差を伴わない形で与える。
この単元で扱わないこと
- 非可換な除法環の上の線形代数は扱わない。一般の環の上の加群、完全列、テンソル積への拡張は環論入門が扱う。
- 体拡大の構造、代数閉包の存在、分離性、および Galois 理論は体論入門が扱う。本単元では、自己準同型の標準形に必要な定義と有限次の分解体だけを扱う。
- QR 分解と特異値分解の構成、最小二乗解、および低ランク近似は線形代数 Iが扱う。本単元の Schur の定理は、QR 分解を証明の根拠に用いない。
- QR 法による固有値計算、数値安定性、および有限精度の誤差評価は数値解析 Iが扱う。
- 無限次元のノルム空間と Hilbert 空間、有界作用素、コンパクト作用素、および無限次元のスペクトル理論は関数解析入門が扱う。
- 進体の整数環、剰余体、分岐、および局所体の構造は代数的整数論が扱う。本単元では、進体を非退化形式と二次形式の境界例に限って用いる。
- 多様体上のテンソル場と微分形式、外微分、接束と余接束は多様体入門が扱う。本単元では、有限次元線形空間の上のテンソル構成までを扱う。
大学課程における位置づけと参考文献
本単元は、日本の大学の数学科において「線形代数学第二」「線形代数続論」「代数学」などの名称で開講される科目のうち、係数体を一般化し、標準形と双線形形式を扱う部分に対応する。多くの課程では、行列の計算を扱う科目に続く2年次以降の科目として置かれ、代数学、幾何学、解析学の共通の前提として扱われる。英語圏では、Advanced Linear Algebra または Multilinear Algebra と呼ばれる科目に対応し、テンソル積と外積代数の部分は、抽象代数学の科目で加群の理論とともに扱われることもある。
本単元の内容は、単元の参考文献に挙げた文献のほか、次の文献が扱う範囲ともおおむね重なる。いずれも、本単元の証明を補い、より広い範囲へ進むための文献として挙げる。
- 齋藤毅『線形代数の世界 — 抽象数学の入り口』(東京大学出版会)— 基底を選ばない立場から、双対空間、商空間、テンソル積、Jordan 標準形までを扱う。本単元の前半の構成に近い。
- 佐武一郎『線型代数学』(裳華房)— 標準形、双線形形式、二次形式を含む古典的な教科書である。実数体と複素数体の上の議論を詳しく扱う。